60% water

ヒトのからだの60%は、水で出来ている。

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誰かの続きの世界がまた始まった。

読者の皆様、お久しぶりです。
各方面からご心配の声がありましたが、ちゃんと生きてます。
…がしかし、勘のいい皆様はお察しの通り、あって欲しくはない出来事も起こりました。
そんな長くて短い正月休みを一気に振り返ってみたいと思います。



1月1日。元旦。
早くも2008年の仕事始め。
31日までの大忙しな状況から一転、年明け初日の元日はすこぶる暇。
配達業務の人はお忙しいのですが、私の部署は基本、暇。
新人君も初日から参加で、研修と呼ぶにはあまりにお粗末な仕事量だったため、外務の全てを彼に任せて、私は職場で年末に溜め込んでしまった要処分書類の束をシュレッダーへ。
朝から終業まで、お昼を食べた以外はずうっとシュレッダーを掛けていたのです。
随分と時給の高い雑用係だったわけです。
ただ一つ特筆すべきは、帰ってきた新人君を手伝おうと、自動車の発着場で荷物の積み下ろしを手伝った際、車のハッチバックのフックに作業ズボンの裾を引っ掛け、そのまま50cm下のアスファルトへ叩きつけられたのだ。
受身は取ったから頭は打たずに済んだんだけど、めっさ痛かったわぁ。
裾は破れてしまったし。むう。


落っこちて怪我しようが、仕事自体はやっぱり暇だったから、無論、定時でサクッと終了。
さっさと帰ってビールでも呑もうかなって時に、連絡があったのだ。
大学時代の旧友、シゲから。
シゲはずうっと関西地区で働いていたのだけど、いつだったか、新婚の奥さんと共に関東へ移籍してきて、そのままこちらで働いていたのだ。
彼もまた、元旦から仕事だったのだが、仕事が終わってから呑みに行こうと言う誘いのメールが来たのだ。
奥さんと子供は帰省していて、一人だったそうな。
んまあ、子供がいないことを除けば、よく似たようなもんだ。
翌日2日は11時からの勤務だったし、呑む場所はうちの近所で…ってことなので、行くことに。

シゲは8時頃に我があばら家へ到着し、車を家の前に乗り捨てて、新百合ヶ丘へ。
元旦だからこそか、開いてる店が少ないせいで、魚民は盛況だった。
あれやこれやと話して呑んでいるうちに、結構な時間が経ってしまった。
驚いたのは、シゲ個人所有のケータイ電話へ、仕事先から電話がひっきりなしに掛かってくると言う話。
いや、別に珍しいことじゃない話なんだけど、でもねぇ、朝の4時に「??持ってきてくれ」とか、ぶっちゃけ「俺はパシリじゃねぇぞ!」といいたくなるような話には驚いた。
それが日常的にあるらしく。
それって、どうなのかね?
こんなテキトーな俺が言うのもおこがましいけど、オンとオフって、大事だと思うよ。
朝の4時過ぎに、そんな用件は断ったっていいんじゃないかい?
しかも君ん家、ちっちゃくてかわいい天使がおりますがな。
よっぽどの緊急でもない限り、ちっちゃい子がいる家庭へ朝の4時に電話掛けてくるヤツなんて、ろくなモンじゃないと思うよ、俺。
仕事替えろとか辞めろとか、そういうことじゃなく、まあ、なんだ。それなりにうまくやれ。
12時にケータイの電源落としたって、誰も文句は言わないと思うぞ。

…さておき。コホン。
呑みの席の最中、懐かしい面子の名前が挙がった。
そのうちの一人である、テルに電話をしてみた。
繋がった。
テルは大阪でパティシエの修行に明け暮れていて、忙しい毎日を過ごしている…というのが、確認できている最終情報だったのだけど、テルは今、実家のある岐阜へ戻って、なんとなんと、自分の店をオープンするための開店準備に追われているらしい…と言うことがわかった。

「ピラン、いつ帰ってくるん?」

   「明日(1月2日)の夜遅く」

「いつまでおるん?」

   「6日まで。 4日が一番都合がいい」

「じゃ、4日に連絡入れるわ」

ってことで、テルとは4日に、私の実家で会うことが決まった。



1月2日。
昨晩、シゲはうちに泊まっていった。
車で来て、お酒を呑んだんだもの、そりゃあ当然だ。
朝起きてから、鶴川のコメダコーヒーへ行き、名古屋式の朝食を摂る。
しかし、三箇日はモーニングサービスをやっていないらしく、名古屋式でもなんでもない、タダの普通の食事になる。
そのまま鶴川の仕事場まで送ってもらい、近いうちの再開を誓って別れる。
シゲ、またな。

2日もやっぱり暇で、シュレッダーもあらから始末できてしまった。
なのでこの日は、残りの仕事を全部新人君へ押し付けて、私はもう出勤すら取り消して、さっさと帰った。
家の掃除をしていなかったので、洗濯含め、雑用をこなしつつも帰省準備。
洗濯物がかなり多かったのでそれに梃子摺り、結局、実家へ到着したのは23時過ぎ。
妻は自分の実家で疲れきった様子なので、顔を合わすのは翌日(3日)の義父さんの見舞いに行くときにして、私もさっさと眠った。
長距離の移動は、それだけで疲れるのだ。



1月3日。
午前中から妻と合流し、病院へ。
むっちゃんこと、うちの母ちゃんが、正月は暇だから病院まで車で送って行ってくれると言うので、厚意に甘えることにした。

お義父さんは年末に顔を合わせたときより更に痩せこけていた。
けれど、言葉はハッキリしているし、点滴を打ってはいたものの、自分で歩き回ることが出来ていた。
ただ送ってもらうだけと言うのも忍びないので、むっちゃんも見舞いへ付いてきてもらった。
さすがに薬剤師だけあって、お義父さんの病状を的確に把握した上で、お義父さんが不安に思っていることに一つ一つ、その対処法を含めて答えていた。
遣り取りを見ていて、心強かった。
『医は仁術なり』と、かつての中国の名医・華陀は言った。
その遣り取りは、金儲けなんて匂いの一つもしない、まさに仁術としての医、処方であった。
患者であるお義父さんの心を安心させることが第一で、第二に有効な手段を教える。
今を憂うのは当然のことだけど、だからこそ希望は失っちゃいけないのだ、と、全然関係ないことで、まるで自戒するように思ったりもした。

妻は翌日の4日から仕事始めとなるため、本日中に川崎へ帰らなければならなかった。
だから時間の許す限りお義父さんの近くにいたいと話した。
なので良き頃合を見計らって、私とむっちゃんは病院を後にした。



1月4日。
やっと、私にも正月らしい日が訪れた。

朝、起きる。
今や私は実家にとって『お客さん』扱いなため、客間的に使われている仏間で寝ている。
…で、起きると同時に仏壇へ線香をあげ、お参り。

おせちを食す。
のこりものだけど、そんなことはどうだっていいのだ。
正月らしさを味わうことが出来れば、それで充分。
贅沢を言える状況では、ないのだ。
とはいえ、『いいもの』が残っていた。
柚子の皮にイクラを詰めたものが二つも残っていたのだ。
よう、イクラ。久しぶり。しばらく食べてなかったな。
旨いのは言うまでもなく。
こりゃもう、午前中から酒じゃ酒じゃ。
イクラをちびちび食べて、飽きたら違うものをつつき、合間合間にビールを傾け。
おお、正月の装い。なんだか懐かしい気分。
そんななか、4日から仕事始めの人も、いるのよね。うちのワイフみたく。

働くことは、悪いことじゃない。
休むことは、これも悪いことじゃない。
ただ、正月を忘れることは、悪いことだ。
私は確かに、去年は正月らしさを知らないまま過ごしてしまった記憶があります。
正月ってのは、やっぱり、きちんと新たな年を迎えるべく、12月中にやるべきことをやって、1月に休む、というスタイルを伝統として継承していかねば。
大人と言うものは、そういった色香を大事にせねば。
暑中見舞いとかも、色香漂うね。時期は逆だけど。

…そう、そうなのだ。
年賀状を書かねばなるまい。
って、自分の家から持ってきた年賀葉書を並べ、呑みながら書くわけです。
どんなに不細工でも、どんなに時間が掛かっても、年賀状はやっぱり手書きですわね。
昼から午後に掛けて、酔いに任せて時々寝たりしながら、チマチマ年賀状を書いているうち、いつのまにか夜の帳が降りていて。
そんでもって、ケータイに一本の着信。
テルからだった。
テルが来たのだ。



奥さんの実家から帰ってきた弟も合流して、久しぶりにテルと話した。
新しくオープンする予定のテルの店の図面を見て、あれやこれやと談義する。
テルは都合のいいデザイナーを探していて、そんでもって、俺の中で『都合のいいデザイナー』って聞いて、弟を思いついたわけで。
弟は、兄の私が言うのもなんだが、デザインのセンスがあると思う。
高校のとき、ひょんなことで弟のデザインセンスを知ったのだけど、今になっても尚、弟が時々やらかすデザイン的ななにかを見て、いちいち驚いたりしている。
何の勉強もせずに、こういうものが書けたり、作れたりするのはすごいなぁ。って。

…で、テルの新しい店舗の話もそこそこに、やっぱりこの面子だと懐かしい話に花が咲くわけで。
あれこれ話しているうちに、シゲのときと同様に、昔懐かしい面子に連絡をしてみたのだ。

ドラゴン。
もう一人の『ハヤシ』に連絡。
あんにゃろうめ、連絡もナシにソフトバンクへケータイを変更していやがった。
んま、ナンバーポータビリティのおかげで番号は変わってないから、連絡は出来たんだけど。
今ドラゴンは、シゲと入れ替わるようにして兵庫へ。
なにやら傷心ボクシングを始めたとかなんとか。
そんなドラゴンには、例のチームをオススメしておいたのだ(今の時点で既にコメント欄へ参加表明があることは非常に喜ばしい)。

そんでもって、もう一人。
私をヌーノ・ベッテンコート漬けにした男、ヤスイ氏。
この人は、ずうっとケータイを所持してなかった。
だから、コイツと連絡をとろうとするときはいつも宅電へ連絡を入れる。
そんでもって、いつもいつも、一度目に本人が出たためしはない。
だからこそ、ちょっと緊張するのだ。
ケータイが主流になってからと言うものの、電話を掛ければ間違いなく『目的としている人』に繋がるのは確実で、それ以外の人が電話に出ることは考えにくい。
でもでも、一昔前は、好きな人の家に電話したらお父さんが出た…なんてのが当たり前だったわけで、俺だってそういう経験したクチだし、つまりヤッサンちに電話すると、ソレに近い緊張感をいつもいつも、新鮮な気持ちで味わえるのだ。

電話。
出た。
やっぱり、母ちゃんが出て、んで、のそのそとめんどくさそうに(想像ではそんな風)、2mの巨体を揺さぶって電話口に出るのだ。

「ひさしぶり?」

声は全然変わってなかった。
彼『も』どうやら、椎間板ヘルニアを患ってしまったらしく、足が痺れて痛い…と嘆いていて。
私はあくまで軽度のヘルニアだったから、そこまでひどくならずに済んだものの、特に彼は身長が3m近くある(想像ではそんな風)ので、その5mを誇る巨体(想像では)が仇となり、正常時が7m(想像)なのに、腰が痛くて縮こまって、8mくらいに(当社比)なってしまっているそうな。

でもそんなの関係ねぇ。

例のチームに入りなさい。と、積極勧誘。

要はあのチーム、私にとって、一生付き合っていたい友人ばかりがいてくれれば、願ったり叶ったりなのだ。
「入れてくれ!」って挙手してくれた人はもちろん、受け入れますとも。
と同時に、ここのことを知らない、私の古くからの友人の中にも、入れたい人がいたりして。
そのなかにヤノやらシゲやらテルやらドラゴンやらヤッサンが、いるわけで。
早く輪の中に加わってくれ。



ヤッサンは、翌日(5日)なら仕事に都合つけられそうだから、巧いことスケジュール調整出来たら遊びにいく、と。
その連絡は、翌日に入れるってことで、オチがついた。

テルは弟が家に帰った頃合を見計らって、彼もまた、岐阜へ帰った。

店がオープンして落ち着いた頃、岐阜へ顔出しに行くぜ。



1月5日。
前日の呑みの疲れか、11時くらいまで眠っていた。
どうせ今日も正月休みだ…なんて、ぐうたら決め込んで2度寝をしていたとき、川崎の家に居た妻から連絡があった。

「今からそっちに戻ります」

と。

お義父さんの容態が急変した。
癌を患っていた患部の腸に穴が開いて、そこからお腹の中へ汚いものが流れ出してしまい、どうにも処置が出来ない状態になってしまったのだ。
癌発見当初、どうしようも出来なくて、お腹の中にそのまま残していた爆弾が、ついに破裂してしまった。
危篤状態であると聞き、正月ボケしていた頭を叩いて、慌てて家を出た。



名古屋駅で妻と合流して、病院へ向かった。

「悪いね、洋君」

と、言葉はハッキリしていたものの、3日に会ったときと比べて随分と弱弱しく喋った。

そんな折、ヤッサンから「行けそうだ」という連絡が入った。
だけど、こちらの状況が悪くなってしまった。
せっかくスケジュールを段取ってくれたのに、ゴメンな、ヤッサン。



お義父さん危篤の報に触れ、続々と親族が集まり、そこでお義父さんは『最後の言葉』として、自分の思いを語った。
妻からみればおばあちゃんに当たる、お義父さんにしてみれば、自分の母へ、子が先に逝く無念と謝罪の言葉を聞いた。
痛み止めの量は増える。
睡眠薬も併せて投与し、お義父さんは、少し安定した。
暖房の効きすぎている病院の、真っ暗なロビーで、ソファを並べて仮眠を摂っては、時折聞こえるナースコールの音にビックリして、慌てて病室へ帰ってみてはお義父さんの無事を確認し、またロビーへ戻って眠る振りを続けていた。

最終的に私を起こしたのはナースコールではなく、妻だった。

「来て」

言葉少なかっただけに、本当に危ないんだな、と悟ることが出来た。

病室へ戻ると、お義父さんはまさに、最期の時を迎えようとしていた。
ただ、呼吸しているだけ。
自分の残る体力ではもう、呼吸を続けることが精一杯の様子だった。



1月6日、10時22分。
逝った。



精一杯呼吸をしていたお義父さんの舌が、すうっと喉の奥に沈んだきり、動かなくなった。
『息を引き取る』という表現があるが、まさにそれであった。
最期は苦しみから解放され、静かに旅立った。

激痛を堪え続け、家族のために1秒でも長く生きようとした父の背中は冷たくなった。



悲しんでいる余裕を、神様は与えてくれない。
亡くなったお義父さんの葬儀に向け、あれやこれやと慌しく動くこととなった。
今思えば、そのほうがかえってよかったのかもしれない。

血はつながっていないとはいえ、1親等の身内として葬儀に参加するのはこれが初めてで、故人を葬ることがこれだけ慌しく煩雑であるのかと思い知った。



6日の晩は仮通夜として、お義父さんの亡骸を家へ運び、弔問客を招きいれた。
そんななか、葬儀における宗教的な葬儀方法を、お義父さんが熱心に信奉していた団体の方々と、長男であり喪主の義弟が相談していた。
かなり、てんやわんや。



1月7日。
通夜。
前述したように、マイノリティと言わざるを得ない宗教を信奉していたため、私の知る『通夜』とは形式が違った。
というか、家族の誰もが詳しい葬儀の段取りを知らなかったため、式場は大混乱に陥った。
通夜と言うより、告別式の予行演習と言いたくなるほど、やっていることは難しかった。
受付をしながら、親族が儀式に参加する必要があるときには式場へ顔を出し、私は私であちこちへ慌しく動いたりした。
そんななか、我が東洋とむっちゃんも、身内として式の運営を手伝いに来てくれた。
そのほか、親族や宗教団体関連の人たちも続々と手伝いに来てくれた。
受付関連の仕切りは私に一任されたのだが、残念ながら、仕切りたがりの仕切り下手が現場をかき回すだけかき回し、その人が儀式も執り行ったため、むちゃくちゃだった。
終いには、私が一番信用していたむっちゃんと東洋を『知らない人だから』という理由で私の許可なく外し、私が席へ戻ると面子が変わっていたりしていた。
せっかく仕事を覚えてもらった人を外して、現場監督がいない間に勝手に新しい人を現場へ放り込んだため、香典の管理はむちゃくちゃになり、最期に帳尻を合わせるのが物凄く面倒になったりした。
正直、一発ブン殴ってやりたい気分だった。
それは私に限ったことじゃなく、喪主の義弟を始め、お義母さんも妻も義妹も同じ気持ちだったようで、とはいえ、大事なのはお義父さんを葬ることであって、つまらない内紛をいちいち起こしてる場合ではないのだ。
…だけど結局、我慢していた我々とは関係のないところで、場を混乱させていたその人と、その下の人とで内紛は起こっていたらしくて。
一番大事な空気が読めてないってのは、罪なのだなと知った。

うちの親父は偉いと思った。
いわば義勇軍的立場で手伝いに来てくれて(考えてみれば、葬儀を手伝いに来てくれる人はみんな義勇軍的立場なんだな…)、それにもかかわらず、ようわからん人に蔑ろにされた挙げ句、『あっちいけ』みたいな扱いを受けたのに、

「気にしとらん」

の一発で、私に笑ってみせた東洋は、やっぱり目指すべき背中だと思ったわけで。



てんやわんやの通夜が終わると、告別式の準備に入る。
私も時折、職場へ状況報告の電話を入れたりして、自分のスケジュールを調整しながら、告別式の準備に参加した。
言われるがまま、あっちへ車を出したり、こっちへ物を搬入したりと、いつもの仕事よりもやることが多かったような気がした。
あれこれ終わってから葬儀場の宿泊室で喪主の義弟と二人で、残り物の助六寿司を頬張りながら、やるべきことや段取りを組んだりしているうちに、明け方近い時間になってしまった。
どの道、眠れるような心境ではなかったけれど。



1月8日。
告別式。
ほとんど寝てないテンションで告別式に参列した。
『参列』というと語弊があるのかもしれない。
昨日の失敗を踏まえて、この日は極力、受付から離れないようにしていた。

慌しく受付を回しているなかも、式はしめやかに執り行われ、無事、送ることが出来た。

桑名の火葬場へ、お義父さんを運んできた。
ここの火葬場へ来たのは、もう3回目だ。
おばあちゃんの時と、佳明叔父さんの時、そして今日。

火葬に参列となると、長島のおじいちゃん、松戸のおじい、杉村先生と併せて6回目。

桑名の火葬場へ来ることには、慣れた。道もわかる。
だけど、この『火葬』という儀式だけは、何度やっても、慣れない。

つい先ほどまで形のあったものが、灰になる。

この灰に、なにを思えばいいのだろう。なにを映せばいいのだろう。

いつもいつも、虚しさしか残らなくて。

あの瞬間、まるで今までのその人との遣り取りが全部、幻だったかのように霧散していく。
忘れないように捕まえようとしても、目の前にある灰の嘘っぽさに、負ける。

今回のお義父さんのときも、全く同じ感覚に陥った。



火葬が終わると、遺骨と遺影を家へもって帰ってきて、亡き魂へ祝詞を捧げた。
これで一旦、葬儀と言うものが終わったのだ。
落ち着いて食事を、久しぶりに取ることが出来た。
余った精進料理を食べて、ビールを呑んで、生前のお義父さんの思い出話に花を咲かせた。
みんな疲れが出たのだろう、食事をしながらそれぞれ眠ってしまった。
私はここで、平野家へ帰ることにした。

翌日、川崎へ戻る予定だったので、自分の荷物を整理するためにも家へ戻る必要があったのだ。

家へ帰って、仏壇に手を合わせてから、東洋と一緒にもう一杯呑んでから眠った。



1月9日。
4日夜にテルが来たことで、途中でやめてしまった年賀状書きを再度、始める。
全ての年賀状を書き終えた頃、妻の実家から連絡が入る。
受付のことで喪主の義弟がなにやら質問したいことがあるらしく、来てくれないかと頼まれた。

受付で作成した台帳の見方がわからなかっただけだった。
その見方を知っている私が、記号や数字の書かれている意味を説明し、その全てを喪主へと接続した。
葬儀が終わって一日、ここでは早くもお墓の相談や相続に関する手続きなどで、またしても来客でごった返していた。
休む暇を与えてくれないのだ。



ちょっと遅い昼ご飯を東洋と共に食べ、付かれきった体を温泉で癒し、東京方面へ。
前日の夕方、キシコから連絡を受けていたので、帰りに新宿へ立ち寄り、軽く呑みながら話した。
こんな妙なタイミングで、しばらく振りの再会になってしまったわけだけど、正直、助かった。
誰かと話したかったのだ。
葬儀に関わってない誰かと。
私的には偶然このタイミングでのみの誘いが来たのは随分救われたのだけど、話が話だけに、彼女にとってはちょっと迷惑だったのかもしれない。
気分を害していたら、ごめんなさい。
私としては、随分軽くなれました。付き合っていただき、ありがとうございました。



久しぶりに小田急の満員電車に揺られ、家へ帰ってきた。
家は、自分が実家へ帰ったときと変わらない姿で主を迎えてくれた。
久しぶりに自分の布団で眠った。
もともと眠ることには神経質で、自分の布団が一番相性がいいはずなんだけど、というかやっぱり、眠れなかった。
家の静寂が一気に押し寄せてくると、あれこれ考え始めてしまって。
一本だけ冷蔵庫に残っていた発泡酒を呑んで、効き目が薄れないうちに瞼を瞑った。



1月10日。

職場復帰。
…の前に、アサイチで妻から連絡が入り、麻生区の市役所へ行くことに。
妻名義の印鑑証明の登録を取りに行かなければならなくなったのだ。
なんでも、遺産相続で必要らしく、翌日の午後には欲しいとのこと。
あまり詳しい話は聞かないまま、印鑑を持って家を出た。

相変わらず、麻生区役所は人でごった返していて。
そんななか、必要書類を記入して、素直に順番待ちして、随分待たされ、やっとこ私の番。

「奥様からの委任状をお持ちですか?」

と聞かれ。

委任状なんて、持ってないぞ。
どうやらその委任状とやらがないと、登録してもらえないらしく。
それと同時に、登録用の印鑑と、それから、代理人である私の印鑑が一緒ではマズイらしく、それをとりに帰ることに。
委任状とやらは一部貰った。
そんでもって、家で、妻の筆跡をそれなりに真似して、もう一度持っていった。

登録は完了した。

…でも。

結局のところ、印鑑証明を受け取ることが出来るのは、本人だけらしく。
その委任状とやらも結局、『代理人さんが登録してくれましたから、本人様が取りに来てください』という証明を、家へ送りつけるためのクッションの役目だけみたいなのよ。

なんだよ、結局本人じゃなきゃ最終的には貰えないんじゃん。
だったら始めから言ってくれれば、昼も抜いて、仕事場にも遅刻の旨を申し出てまでやらなくても良かったのに…

葬儀は終わっても、まだまだなにかとあるらしく、妻はまだ帰ってきていません。



明日の土曜はやっと休み。
こないだまで大連休だったわけで、だからこそ『やっと』という表現は変なのかもしれないけど、いやいや、疲れたよ。かなり。
明日は雨だし、やらなきゃいけないこともあるんで、まずはゆっくり眠ってから、昼頃に始動しようと思っております。



もうここは、お義父さん見れなかった、続きの世界。

まだまだ続けて見せます。



俺の続きの世界は、誰が見てくれるんだろうか。ふと気になったりした。
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